「主が共にいてくださる(十字架と復活)」

主の御名によって祈った(礼拝した)イサクは、主によって家庭を築き、仕事をし、まわりの人々と平和をもちました。ここに信仰者の実践があります。毎日私たちも家庭生活があり、仕事、働くことがあります。それはまさに、イサクのここに書いてある事がらです。イサクの祝福である「主が共にいてくださる」ということは現在の私たちにも与えられる祝福です。家庭が主が共にいてくださる場所である。仕事、働きが主が共にいてくださることである。私たちが毎日の生活の中で、主が共にいてくださることが最もすばらしい祝福なのです。イエス様は主が共にいてくださるインマヌエルという名前です。私たちが礼拝することはイエス様が共にいてくださるという祝福の中に生きることです。その祝福はイエス様の十字架と復活です。KGK主事、現在は鳩ヶ谷福音自由教会の牧師となられた大嶋重徳先生が書かれた本「おかんとボクの信仰継承」という本があります。おかんとはお母さんのことです。その中にこんなことが書かれていました。「信仰継承には中身が必要です。中身というのは(いったい何を信じているのか)ということ、これが伝わらないと意味がありません。ボクが小学校4年生になった頃、おかんは教会の勉強会で教えてもらった「キリスト教って何」という教理が書いてある本を持ってきて「いいか重德、クリスチャンが何を信じているかをこの本で説明するからよく聞いてな」といって聖書が言っている救いの大切なポイントを本を開いて話し始めました。「神とは何か」「創造とは何か」「人間は何のために造られたのか」「罪とは何か」「十字架による救いとは何か」「信じて義とされるとは何か」「聖化とは何か」「終末とは何か」おかんの話はおかん自身も本当にわかっているのかちょっと微妙だったけれど驚くべきことに「罪とは何か」「十字架による救いとは何か」という話をしながら、おかんはボロボロ涙を流し始めました。そして泣きながらこう言いました。「私はな、本当に罪人なんよ、罪を犯して赦されたと思ったら、またすぐ罪を犯してしまう。自分ではどうにもならないんよ。重德あんたもお母さんに言えん罪がいっぱいあるやろ。でもな、イエス様がその全部を十字架で背負ってくれたんやで   教理づくめの学びを息子にするつもりで乗り込んできたおかんが自分が話してる最中に自分の罪を示され、十字架の恵みに感動して大泣きし始めたのです。その涙の迫力で教会学校のお話しにしかすぎなかった十字架のイエス様が、急に現実的に迫ってきた。そしてボクはおかんといっしょに泣きながらイエス様の救いのわざを感謝した。このことが(十字架と復活)今の私たちにとっても主が共にいてくださるという祝福なのです。