「罪からの救い」

 イエス様は、汚い、臭い家畜小屋で生まれなければならなかった深い意味がありました。

それは私たちの心の汚い、臭い罪を聖めるためでした。

 

ある牧師先生の証しです。

「私は小学生の頃、友だちといつも学校で、仲良く遊んでいました。ある日、教室で、ひとりの子が風邪気味なのか、気持ちが悪くなり、がまんできずに、床の上に吐いてしまいました。それは、汚く、くさい、においがしました。教室のみんなはそれを見て『きたない !!』と叫び、その子からみんな離れて行きました。誰ひとりその子に近づく人はありません。そして、その汚物をかたづける者もありませんでした。自分もそのうちの1人でした。先生はバケツと雑巾を手にしてその汚物を片付け始めました。そして、後ろを振り向いてこう言われました。

『みんな!それでも友だちなの!』自分はその時『汚い所には近づきたくない』と思いましたが、その先生の言葉が心に刺さって、友だちを助けることができなかったことを悔やみました。

 それから大学生になり、教会に行くようになり、イエス様を信じてこの光景を思い出しました。

イエス様が、あの時の先生の姿に重なりました。イエス様は汚物でまみれている家畜小屋のような罪人の私達のために生まれてくださいました。あの小学生の時、はいた汚物で汚くなっている友人の姿は、実は私の心の中の姿でした。自分は、汚い、くさい、においする汚物で汚い、においのする者でした。

 しかし私の心の中は、『自分は汚れていない、自分は大丈夫、そして汚物にまみれた友だちとは違う。

だから近づきたくはない。』このように私は、自己中心で高慢な罪によごれた、汚い、においのする心の中だったのです。私は、どうにかしてこの罪をきよめて貰いたいと思いました。

 

 そして、イエス様の十字架の血潮によって洗いきよめてもらわなければならないことを知り、イエス様を私の汚い、くさい、においのする罪の心にお迎えして罪赦され救われました。

そして、教会で洗礼を受心身ともに聖めていただきました。」