「信仰による練」

 キリスト教信仰に導かれるきっかけは、夫の父母と同居することになったから。義父が脳梗塞に倒れ、夫は長男だったので引き取るために住んでいたマンションを手放し、一軒家を建てた。しかしいよいよ同居という前の晩に義父は亡くなった。「実は結婚当初から同居の話はあったのですが、私はどうしても嫌だった。それは義母の子どもの教育に対する考え方に賛同できなかったから。女性には教育は必要ないとする考えには同調できませんでしたし、価値観の違いを感じていたからです。」義父の病ゆえ仕方なく承諾し、義母との同居生活が始まった。義母は「私はこれから楽をさせてもらいますから」と宣言。上げ膳据え膳で、家事も何もしない姑との生活はまるで、自分が家来になったかのようでつらいものだった。「気がついたら姑の話(愚痴)ばかりを娘に言っていたようなのです。それを娘に指摘されて、はっとしました」そんな時に義父の葬儀を手伝ってくれた近所の知り合いが、家庭で開かれていたキリスト教の集会に誘ってくれた。さっそくAさんはその集会に足を運んだ。そこで「いったい何を信じていらっしゃるんですか?」と質問すると「これです」と聖書を示された。

「え、これ一冊ですか?」仏教のお経はたくさんあるのにこれだけ?というのが正直な感想。しかし、言われるがままに友人がプレゼントしてくれた聖書を読んでみた。読み進めていくとある箇所に出合った。

「一番大切なのはこれです。『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』(マルコ12:29-30)「この箇所を読んだ時、ああ、私は心も思いも知性も力も尽くしていない。この気持ちで聖書を読み直そう、と思ったんです」そのように聖書を読んだ後、石黒さんは夢を見た。「私は顔までは見えない光り輝く大きなお方の足元にいて、その方は私を引き上げてくださった。私の後ろには子どもがひっついている、そんな夢でした。後にああ、あれはイエス様だ。神様が見させてくださった幻だったのだと気づきました。神様はいらっしゃる。神様が私と私の家族を守ってくださると信じることができました」その数日後、今度は台所で洗い物をしていた時のこと。突如涙がとめどなくあふれ出した。「自分の罪を示され、そしてその罪のためにキリストが十字架にかかってくださったとわかったのです。涙が止まった時、あんなに大嫌いだった義母のことがなんでもなくなっていたのです」次の日、肩掛けを編んで、義母にプレゼントした。義母は驚いたようすだったが、その日を境に義母も変わっていった。「私には義母を愛する愛はありませんでしたけれど、神様が愛をくださったのです」この愛の連鎖はこれだけでは終わらなかった。この奇跡の変化を見ていたAさんの夫、Kさんも、求道を始める。数年後、自動車事故を起こした夫のようすがおかしい。病院で調べると脳梗塞だった。「手術後リハビリが始まり、歩けるようにはなったのですがなかなかことばが出てこない。私は医者に頼んで退院し、毎日一緒に聖書を読むことにしました。夫は初めは読めなかったけれど、私はその間読めるようにそばで祈っていました。焦ることなく、泣くこともなく、聖書を読んでいると、次第に夫が読めるようになってきた。そしてついに新約聖書をすべて読み終えることができたのです。聖書のことばには力がある。そう実感しました」(百万人の福音4月号)

 

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」1ペテロ1:7