「苦境の時こそ神様に祈る」

 「私は生まれつき臆病で、ことに人から叱られたり注意されたりするのが苦手でした。 大学を卒業して電気メーカーに入社したものの、サラリーマン生活になじめず、きつい仕事だとしか感じられませんでした。一生懸命働きましたが、それは人から批判されたくないという気持ちが強かったからでした。この生まれつきの臆病こそ私が信仰に入った動機でした。イエスキリストを主と信じて今までやってこれたのも、この弱さゆえであったと言えます。

 私は26歳で洗礼を受けて信仰生活に入りました。日曜礼拝が終わって午後になると、翌日から始まる勤務のことが不安で心配で、教会の祈祷室に1人こもって、もっぱら会社のことを祈り、神様の助けを求めました。人事、総務の仕事に従事し、いくつかの工場勤務を経験しましたが、いつも一番に出勤して聖書を開いて祈りました。通勤もできるだけ乗り物を使わず、歩きました。その時間が祈りの大切な時だったからです。しかし、そのような弱さの場こそ、神様の助けを受ける場でもありました。イエス様が11つ具体的な出来事を導いてくださったのです。会社はバブル経済崩壊の直前、管理職の指名解雇のくわだてに出ました。私も関連会社の人事担当として、本社の指令に従って解雇通告をしなければならなくなり、悩みました。私自身も退職を決意したほどです。しかしその時、社内のクリスチャンの友人が「神様の時を待った方がよい」と忠告してくれたため、退職を思いとどまりました。数ヶ月後、今度は私が本社の人事責任者をさせられることになりました。そしてその時、神様がこの時のために退職を思いとどまるように導かれたのかと思いました。それで神様によって会社を改革しようという意気込みがわいてきました。しかし、上司との関係がうまくいかず、私の意気込みは、はかなく消えてしまいました。『人はみな、上に立つ権威に従うべきです』ローマ13:1

 これが神様の定めた秩序だと言えます。でも私は生一本(純粋で混じり気のない事)の性格が災いしてか、上司の人間性などが気になり、十分従うことができませんでした。自分では高慢だとわかっていても、心が言うことを聞きません。そのため、それからの1年は仕事が停滞し、責任感と上司に従えないことのジレンマの狭間に落ち込んでしまいました。会社が危急存亡の瀬戸際にあるのに、こんなことではいけないと自分を責める思いが高じて、毎朝2時間前に出勤して聖書を読み、神様にこの事態を打開していただきたいと祈り続けました。

 しかし事態は変わらないまま、私は2年後に左遷され、無能の烙印を押されたことで、心は深く苦しめられました。この2年余りの出来事は何だったのか、無意味な時だったのではないか、神様は私をどうされようとしておられたのか。しかし、やがてこの出来事もやはり神様の意志でなされたことだとわかりました。それは私の高慢、自我(自分の力を認めてもらいたい)を砕くためのものでした。『患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す・・・』ローマ5:3,4そういえば絶望のただ中でも不思議と平安が与えられていました。『すべてをわたしにゆだねなさい。わたしはあなたの最善の道を考えているよ』神様がこう呼びかけていたからです。その後会社は希望退職者を募集し、私はそれに応募して退職し、神学校に入学しました。私たちの造り主

イエス・キリストこそ、1人ひとりの最善の道を考えておられるお方です。目の前の状況がどんなに絶望的に見えても、イエス・キリストに信頼するなら、絶望が希望に変わる事を私自身体験しました。このお方の可能性こそ、私たちの本当の可能性なのです。苦境である今こそ、神様に向かう時です。神様が呼びかけてくださる声に耳を傾けましょう。」 工藤 正太兄

 「信仰の創始者であり完成者である

 イエスから目を離さないでいなさい。」 ヘブル12:2