「父の救いと平安」

私は高校2年生の時に、イエス様を信じました。心は喜びで満たされ、家に帰った時に、父に報告しました。「私はイエス・キリストを信じました。」すると父はボソッと「それなら、おまえは勘当だなあ」と言われました。私は困ったことになったと思いましたが、信仰は捨てられません。高校3年生になる330日、父には内緒で佐渡ヶ島の海で洗礼を受けました。私の中の喜びと感謝は益々大きくなり、妹たちにもイエス様のことを伝えるようになりました。高校3年生のクリスマスの頃、珍しくクリスマスケーキを父が買ってくれて、祖母と妹たちと一緒にこたつを囲み、ケーキのろうそくを見つめながら、きよしこの夜を歌いイエス様がこの世界に来てくださったお話しをしました。イエス様は私たち人間を罪から救うために十字架にかかって、私たちの罪の身代わりに、神様から罰を受けてくださったこと、そして墓に葬られ3日目に罪に打ち勝ってよみがえられたこと、そして、このイエス様の救いを信じる人は誰でも、天国へ行けることを証ししました。妹たちはまだ小学生、中学生でした。

 

その後、保育専門学校に行くために東京に上京しました。1人暮らしは高校の下宿で慣れてはいましたが、やはり東京は孤独を感じました。紹介された小竹町聖書教会に通いながら、実家にもよく連絡を入れていました。父にはよく手紙を書き「イエス様を信じているから、いろいろな困難もあるけれども、流されることなく守られていること、そしてお父さんも、このイエス様を信じてほしい。イエス様の十字架と復活を信じてほしい」と何度も手紙を書きました。

 

私は無事3年間の学びを終えた時、神学校への召命が与えられ、この事も父に報告するため、佐渡に帰りました。父は「もう21歳だ、結婚はどうする、学費はどうするんだ」と言いました。私は心の中では神様がすべて満たしてくださると確信していましたが、父には「大丈夫、今までの貯金やアルバイトで何とかできる、そして結婚もなんとかなるよ」と答え、父は反対することもなく、私の神学校行きを見守ってくれました。神学校を卒業と同時に、高槻で牧師をしていた主人との結婚が決まり、その時も父は黙って許してくれました。父は、私たち子供に強制したことは1度もありませんでした。私たちが「こうしたい」ということを、いつも許してくれました。そのかげには、父が長男として、病気の父親の代わりに弟たちの学費を稼ぐために高校を中退し、就職し、一家を支えることを余儀なくされたからだと思うのです。いつも自分の願望ではなく、家族のために生きてきました。

 

私が結婚してからは、家族で夏休みを利用して佐渡に帰っていました。その度に、イエス様の話をし、祈り、伝道していました。母は、私のガンの看病のために教会にきて、信仰を持ち、暫くしてアルツハイマーになり天に召されていきました。父が倒れたのは母が天に召されてから2年半たった時でした。私は夏冬、父が心配で夜行バスで帰省していた頃です。ある日父が倒れて頭の手術をすると妹から電話があり、慌てて帰省しました。父は頭に包帯をし、眠っていました。このまま召されたらどうしようと不安になりました。幸いに意識が回復し、数ヶ月後主人と私は、ゴールデンウイークを利用して伝道にでかけました。父は主人の語るイエス様の救い、福音にガンとして首を縦に振ろうとはしません。何度も何度もイエス様の十字架と復活と永遠の命を伝えました。私たちもくたびれて、暫くの沈黙がありました。その後に、もう最後かなと半ば諦め気分で「お父さん、イエス様信じて」と言うと父は、コクンとうなずきました。そしてその後、分かった分かったというように何度もうなずきました。私たち三人は、神様に感謝のお祈りを捧げました。今父は、永遠の住まいである天の御国に入っていることを感謝します。 Sさん

 

 

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネ14:1.2)