「たった一人の息子の死」       

                           友納徳治牧師

6年前の34日、日曜日の早朝、アメリカ在住の息子から緊急電話が入りました。

H(クリスチャン)という福岡出身の留学生が交通事故で死亡したので両親に会いに行って欲しいとの依頼でした。ご両親は沈痛な思いでアメリカに旅立たれたのです。帰国されて、H君のお父さんは私たちの教会でこう挨拶されたのです。「たった一人の息子の死を聞いて自分も死んだ思いでした。機中の人となったものの、私たちには大きな不安がありました。英語も話せない外国へ、しかも全く見も知らぬ人たちに会う重苦しさでした。着いてみると多くの方々が何もかも準備して迎えて下さったのです。葬儀から帰国のその日まで支えられました。いったいこの人たちの親切はどこからくるのだろうと不思議でした。行く路のときと違って帰る路では私たち家族に平安と感謝の思いが満ちていたのです。この私たちに寄せられた愛は、人からではなく、あの人たちが信じている神からの愛だとわかったのです。息子の死が終わりではなく、新しい命のはじまりであると言われたことが信じられるのです。あの人たちの愛によって、助けられたからです。私たち家族もイエス様を信じます。」その後、教会生活を共に持ち信仰の学びをし、ご家族三人そろってバプテスマ(洗礼)を受けられました。

「キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(Iヨハネ3:16)自らの死、愛する者の死に直面したとき、人は無力です。これまでのどんな履歴も、すぐれた社会的業績も、名誉も地位も権力も、財力もひとたまりもなく死に吸い込まれていきます。それによって死を横切って行ける人はいないのです。H君家族も同様の思いで、なすすべがなく、へたり込んでおられたのです。しかしアメリカの教会の人たちの愛の中で、主であるイエス様の声を聞かれたのです。『お前の本質は、わたしの子、神の子供だ。わたしにゆだねなさい。そうすれば神の子供として生きることができる』と。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)この根本的な確信こそが、私たちの人生の在り方を決定するのです。

 

 

「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 (ピリピ3:20)