「キリストによる救い」

                           SIさん

私は30歳の頃夫を亡くし、幼い息子と娘を抱えて、結婚前に習ったことのある洋裁で細々と生計を立て始めました。幸い、私の縫った服は着心地がいいと褒められ、人の3倍働いたおかげで、やがて内職やパートの人たちを大勢使って縫製工場を営むようになりました。20年ほど前からは、ウェディングドレスで有名なあるデザイナーの仕事を請け負うまでになりました。

 

長男は大学を卒業して恋愛結婚しました。

ところが孫が生まれると同時に、嫁は心の病で入院し、結婚生活を続ける見込みが立たず、結局私が仕事をやめて孫を育てるしかありませんでした。私1人で努力して勝ち取ってきた成功が、嫁によってあっけなくくつがえされてしまったようなものでした。その怒りや恨みを自分ではどうにも抑えきれず、解決の場を教会に求めたのです。私の両親はある新興宗教の信者だったので、私も長い間それに係わっていました。

でもその教えに、心底からは納得できませんでした。それは誰もが心の奥底では本物の神を知っていて、慕い求めているからではないでしょうか。それで聖書を読み出しましたが、言葉はわかりやすいのに、心には入ってきません。この古典を63歳の今から覚えるのはとても無理だと思いました。

それでも、心の平安を求めて教会に通い続けました。一一危険をも罠をも避け得たるは、恵みのみわざと言うほかなし一一半年後のある日、教会の婦人会でこの賛美歌を歌っていた時のことです。私の半生は確かにこの歌詞のとおりだった。聖書の示す神様の助けなしには、ここまでやってこれなかった。

火災から危うくまぬがれたことや、競争の激しい縫製業界で受注価格交渉がうまく運んだのも、すべてこの神様のおかげだったと思ったのです。それがわかった以上、聖書を自分流に解釈したり頭だけで知ろうとするのはやめて、もうすべて神様にゆだねようと一大決心しました。そのとたん、礼拝堂のいすに座っていた私は、そのままさーっと光輝く世界に引き上げられました。その経験を通して聖霊様の光が当てられない限り、人間がいくら知識を積み重ねても、この光の世界には入れないと知らされたのです。

 

私は、食うか食われるかという仕事の競争の中を女一人で走ってきたために、誰にも言えない悲しみや苦しみという重荷が30年以上もの間、胸の中に隠れていました。そんな私の上に神様の愛と憐れみが、イエス様を通して集中豪雨のように降り注がれ、重荷がどんどん洗い流されていくのです。

それはイエス様が2000年前に十字架にかかって、私の重荷や気づかないところで犯してきた罪を身代わりに背負って、すでに赦してくださっていたからだと、あとで知りました。神様は何もかもわかっていてくださったのだと思うと、只々号泣するばかりでした。その時、私の背後からイエス様が巨大なその光り輝く御手の中に私をすっぽり包み込んでくださいました。私は自分がこんなにも愛されていると思うと、うれし涙が止まりませんでした。

そしてこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。それ以来、聖書が食べてしまいたいくらい好きになり、聖書以外何も眼中に入らなくなりました。このすばらしい愛の神様、イエス様の御名をほめたたえていきたいと思います。

 

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28