「忠実によく生きる」

死んでしまえば、何もかも終わりだ。

生きる希望も、なおる希望もない。

そんな経験もして、しかしわたしは13年間の療養生活を曲がりなりにも送ることができた。

いったい、わたしのような弱虫が、どうして13年間もの長い間(しかも、その7年間はギプスに絶対安静であった)生きとおすことができたのか。それはやはり、聖書の言葉がわたしを支えていたからである。

わたしは聖書によって、自分自身の苦しみや悩みだけを見つめていた目を、隣人に移すことを学んだ。

わたしのようなつまらぬ者の言葉でも、待っている隣人がいることを知った。

死んでいくのは病人だけではない。13年間も長い間病気をしていると、見舞ってくれた人たちが急病で、交通事故で、また他の病いで、何人か死んでいくのに会った。人間の肉体は有限である。

わたしはキリストの言葉を知って以来、なおりたいという願いよりも『よく生きたい』という願いを持った。

人にも驚かれるほど明るい病人となり、わたしの病室は、サロンのように人が集まった。

北は利尻島から、南は鹿児島の指宿に至るまで、男女のペンフレンドができた。

そのほとんどが、療養者と死刑囚であった。療養者も死刑囚も、共通していることは、死と戦っていること、この世から取り残されていることであった。そんな生活の中で、わたしは人を慰めようとすることが、自分を慰める唯一の大きな力となることを知った。このわたしが、愚痴をこぼさなくなり、ただ人の苦しみを聞いてあげるだけとなった時、わたしの病室は「身の上相談所」と呼ばれるようになった。

そうなったのは、わたしの力では決してない。イエス・キリストの愛(十字架の身代わりの死)と、復活による永遠の生命の約束が、わたしを立たせてくれたのだ。

 

特にわたしを力づけてくれた聖句は、葉山教会の牧師宮崎豊文先生が贈ってくださった次の聖句である。

「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかのま、いのちは御恵みのうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」

詩篇30:4~5(平凡な日常を切り捨てずに深く大切に生きること)三浦綾子著

 

 

私達は「人生を生きる」という大きな仕事が誰にでも与えられています。

その中でも、イエス・キリストの十字架と復活を信じて信仰生活をすることは一番大切なことです。

しかし、この大切な人生の仕事を、いやいやながらでもなく、しいられてでもなく、泣いてでもなく、喜こんですることを神様は望んでおられます。三浦綾子さんが病気という苦しい人生の中で、イエス様の救いを受けて、イエス様の御言葉によって「人生をよく生きたい」と願うようになりました。

そして自分のことばかり思い悩むのではなく、隣人のために愛をもって接することができるようになりました。

ここに人生をよりよく生きる秘訣があるのです。

 

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」 ピリピ2:3~5