「憎しみからの解放」 

ビルの窓拭きの仕事をしていた僕は、体を乗せていたブランコのロープが突然はずれて七階から転落。

全身を骨折し、脊椎も損傷して下半身はほとんど感覚を失い、左手もしばらくの間、まったく動きませんでした。車いすで生活するしかないと聞かされ、寝たきりの入院生活が始まりました。

 

(僕はなんで助かってしまったんだろう。これからどうやって生きていけばいいんだ。

神様、もしいるなら答えてくれよ!

僕は何か悪いことをしたというのか。

そんなに悪いことをした覚えはないぞ!

だのにあまりにもひどい仕打ちじゃないか!)

 

心の中には、そんな怒りと悔しさと絶望が渦巻いていました。

そんなある日、入院中の娘さんが懸命に歩行訓練をしている姿を見た瞬間、嫉妬心や憎しみ、憤りが津波のように押し寄せてきたのです。彼女が少しでも歩けるようになったら一緒に喜んであげるべきなのに。

(なぜ、僕だけがこんな目にあうんだ!そうだ、あの女の子も僕のようになっちゃえばいい!

みんな不幸になればいい。こんな理不尽な世の中、壊れてしまえ!)

そこまで破壊的な思いを抱くようになった自分は、きっと悪魔のような顔になっているんじゃないかと思うと、

鏡を見るのが怖くなりました。心の奥底に潜んでいたとてつもなく汚い思いに、初めて気づいたのです。一一一

 

退院直後、お見舞いに来てくれた知人に誘われたのがきっかけで、教会に通うようになりました。聖書研究会にも出席し、聖書のわかりにくい箇所を次々と質問しては、納得がいくまで食い下がって説明してもらいました。

聖書の言葉は、乾いた砂が水を吸い込むように僕の心に浸み通っていきました。

ある日、次の聖句が心に一段と迫ってきました。

 

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23-24)

 

入院中に気づかされた自分の汚れた心。それを罪と言い、その僕の罪を赦すため、イエス様が十字架にかかられたことを知って、このイエス様を救い主として信じて洗礼を受けました。

 

「主は、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。

私が弱いときにこそ、私は強いからです。」IIコリント12:9-10)

 

それまでの僕は強くなりたい一心で空手を習い、虚勢を張って生きてきました。

しかし神様が聖書を通してこう言われるのだから、弱い自分を認め自力を捨てて神様にゆだね、赦されていることを感謝し、イエス様とともに生きていこうと思いました。 Nさん

 

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子(イエス・キリスト)を信じるものが、1人も滅びることなく永遠の命を持つためである。」ヨハネ316