「主に砕かれて」

私は66才の時、スキルス胃がんを宣告され、早く手術をしなければ間に合わないと言われました。

生死の問題に直面して、私は、ヒゼキヤ王様のように「神様、私の命を10年延ばしてください、生かしてください!」と必死で祈りました。でもその時、こんなに祈って、私は何のために生きるの?と考えたのです。

それで、改めて主と向き合い、示されました。心の中には思い煩いや不平不満がいっぱいあるのに、牧師夫人だから信仰的にかっこよくしなくちゃいけない一一一それと正反対なのに、私は構えていたのです。

教会奉仕も子育ても、一生懸命してはいる。でも、それは「自分が、主のために何かをする」一生懸命は「私が」なのです。本当の意味での神様の全き恵みがわかっていなかった私は、死と向き合って初めて、主の栄光のために生きることを知らされました。改めて、自分の生き方を神様の前にさらけ出し、悔い改めました。

私はキリスト以外に生きる道はないことを強く自覚させられたのです。

そして、主の十字架の死と復活と、今も生きておられる主の栄光のため、福音を伝えて生きる生涯とさせていただきたいと祈り、再献身しました。

それまでは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ5:16~18)なんて、クリスチャンの標語にすぎないのではないかと思っていましたが、できるようになったというより、内にあるキリストによって、喜んでできるクリスチャンにさせていただいたのです。

だから、聖書のおことばは、決して間違いないのです。

一一一芳賀は忍耐強い人で、最晩年に腎臓も肝臓も弱くなっていましたが、201010月に、パリの最後の集会礼拝のご用をして一一一。でも彼は自分が具合悪いと言いたくないんです。帰国してからも、救急車で運ばれる前、かなりギリギリまで礼拝に出ていました。芳賀が最後に、もうしゃべれなくなった時、手を取って、天に帰るまでずっと「神はわが力」(新聖歌297)を歌い続けていたことが心に残っています。

だから、私の葬儀の時には「神はわが力」と「やがて天にて」(468)2つを歌ってほしいと願っています。

しかし、この5年間、日々、主との交わりによって生かされ、聖霊に導かれて歩ませていただいています。

老いてなお、主に目を向け、キリストを深く知ることを求め、主が許してくださる限り福音宣教のために、キリストにある者の幸いを証しして生きたいと思います。がんを治していただいた時、元気でいる間は主のご用をすることを約束したのですから。自分の年齢を自覚させられ、足がすくんでしまうときもありますが、神様は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)と語ってくださいました。

                                                  芳賀 秋さん