「この方以外に救いはない」

「この方以外に救いはない」

「草履履きの伝道者」と呼ばれた升崎外彦は、石川県金沢に生まれました。
大源寺のひとり娘だった母親は「仏様から授かった子ですから、うちのお寺の跡取りにしてください」と言い残し、難産のために亡くなります。そこで外彦は6歳で寺に預けられ、10歳の時には出家しました。
ところが、思春期になると外彦は人生に思い悩むようになり、寺での生活にも疑問を持ち始めます。
寝ずに「南無阿弥陀仏」と唱えたり、さまざまな哲学や宗教を学んだり、名僧のもとを訪ねたりしましたが、平安や解決を得ることはできませんでした。ついに外彦は絶望して、6度も自殺を試みますが、どれも未遂に終わります。7度目、金石海岸で投身自殺をはかるために海に向かおうとした時、救世軍が路傍伝道をしているのに行き合わせました。
彼は幼少の頃から父親にキリスト教への偏見を叩き込まれていたので、キリスト教に触れたのはそれが初めてでした。
外彦は救世軍を避けようと駈け出したところ、電柱にしたたか頭をぶつけて倒れてしまいます。その時「すべて労する者、重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」という言葉が耳に入ってきました。
そして、つい救世軍の士官に向かって「私は疲れきっています。重荷で押しつぶされそうなのです」と自分の悩みを吐露しました。すると士官は「この方以外には、だれによっても救いはありません」とイエス・キリスト'の十字架の福音を語りました。こうして彼は16歳の時、クリスチャンとなったのです。
しかし、そのために外彦は僧籍を剥奪され、寺から追放されました。
また父親は竹刀で叩いてキリスト教を捨てるように迫りますが、いっこうに首を縦に振らない外彦は、ついに土蔵に監禁されてしまいます。ある時、外彦は家を抜け出すことができ、すぐさま金沢教会に駈け込んで洗礼を授けてもらいます。そして家に帰ってそのことを父親に告げたところ、突然刀で斬りかかられ、氷の張った池に投げ飛ばされてしまいました。それでも外彦は父親の前まで戻ってきて両手をつき、「私が親不幸になることをお許しください」と言いましたが、父はただ黙って泣いているだけでした。
そこには息子を苦しめ、傷めつけなければならない父の苦しみがありました。
外彦は、そのことを知ってさらに悲しみが深くなりますが、父に一礼して家を去ります。
その後、外彦は救世軍の士官学校を卒業し、仙台で宣教活動をスタートします。
ある時、乱暴されていた女の子をかくまったことで、150人以上のならず者から暴行を受け、後頭部をレンガで殴られて気を失ってしまいます。外彦は病院に運び込まれて何とか意識は取り戻しましたが、余命2ヶ月の宣告を受「この方以外に救いはない」けます。そこで彼は、残り短い命を悔いなく過ごそうと、最も宣教が困難な地に行くことを決心し、出雲に向かいます。
そこでも外彦は激しい迫害を受けますが、そのリーダー格だった議員がコレラで死んだ時、外彦が感染を恐れずに彼の火葬を一手に引き受けたのを見て、遺族は感激し、一家でキリスト教を信じました。こうして外彦は村の人々から受け入れられ、やがて協力者の援助もあって、教会を中心に幼稚園や女学校、病院などを設立し、外彦は村にはなくてはならない存在となったのです。
一方、外彦の父親はわが子をなんとかして取り返そうと、キリスト教の弱点を探すため、救世軍の山室軍平が書いた「平民の福音」や聖書を何度も読みました。
しかし、読めば読むほど、自分が尊敬する親鸞とは比較にならないイエス・キリストの教えと神の子としての存在に圧倒されていきます。そして、水垢離をしながら「神ならば現れたまえ」と祈っている時、キリストが現れたというのです。
その後、父親は外彦を家に呼び戻し、正座して、これまでしてきた仕打ちを謝りました。そして6年後、父は息を引き取る前に外彦にこう言いました。「おまえはいいものを見つけた。
俺を天国の特等席に案内してくれた大の恩人だ」そして「外彦。出雲に早く帰れ。キリストのために働いて死ね」と言いながら、安らかに天国へと旅立っていったのです。外彦はその後も、暴漢に受けた傷の後遺症で苦しみながらも、賀川豊彦の農村伝道運動に参加して、84歳まで宣教活動に励みました