「友なき人の友に」

病弱な私はどこにも雇ってもらえないと思っていたが、不思議と道が開かれた。
小さな運送会社で、事務員として働かせていただいた。なぜか毎日、朝の会話は1人の男の人の話でもちきり。
どうやらその人は雇ってはみたものの、なかなかの酒飲みで会社を困らせているらしい。何をしでかすかわからん男だから辞めさせることもできないと、社長共々頭を抱えていた。私は事務の仕事をしながら、ある賛美歌の歌詞が心に湧いてきた。「友なきものの友となりて」そうだ私は彼の友達になろうと思った。
その日、私は家に帰って、神の優しい愛を伝えたくて、彼に手紙を書いた。
もちろんこれは神様が手伝ってくださったに違いない。私はこの手紙の中に「愛」のことばを至るところに書いた。次の日、彼とすれ違った際に「引き出しに手紙を入れておいたから読んでね」と言った。
すると彼は「俺に説教する気か!」と声を荒げた。「いいえ、違います」と答えて去った。
その日、私は夜布団を被って泣いて祈った。「神様、彼を助けてください。
彼が救われるなら私はどうなってもいいです」と本気でそう思って祈った。
やがてこの手紙のことが上司に知られてしまい、部長からきつく注意された。「あの男から手を引きなさい。あの男はあんたの手に負えるような男ではないから」と言われたが私は「大丈夫です」とハッキリ答えることができた。
これから彼のためになさろうとしておられる神様が私の背後におられるように思えたからである。
・・・私は彼を教会に誘った。「私は教会に行っています。今度の日曜日お待ちしていますから、ぜひおいでください」その手紙を彼に渡して、彼が来てくれることを切に祈った。礼拝も終盤になった頃、後ろの扉が開いた。
あの黒いサングラスをかけた、強面の彼が入ってきた。「神様、彼が来ました。感謝です」と祈った。
礼拝が終わり、お昼ごはんを誘った。牧師夫人は「今日はよくおいでくださいました。遠慮なくたくさんおあがりくださいね」と彼を歓迎した。その時彼は、こんなに自分が優しくされる経験は今まで味わったことがないと、不思議な思いだったそうだ。その日以来彼は今まで縛られていたお酒をピタッとやめた。このことは私も私の周囲の者も驚いたが、いちばん驚いたのは彼本人だった。それからというもの彼は毎日仕事が終わると真っすぐに教会へと向かった。牧師も彼のために毎晩夕食を用意して喜んで彼を迎え入れた。彼の心は主によってどんどん変えられ、怖かった顔つきまで変わってしまった。相変わらず黒いサングラスを外さないのは、子どもの頃、縄跳びの縄が目に当たって左目を失明し、義眼を入れていたからだ。以前「あの男に近づくな、あんたのような女の手に負えるようなものではないから」と言っていた部長に「彼が変わったのは、あんたのおかげだ」と言われたが「いえいえ、私ではありません」と答えた。彼をお救いになった神様は弱いものをあえてお用いになった。
それは誰もが誇ることのないためであり、神様のお働きがありありと示されるためであった。
私は主が用いられた、ただの土の器でしかない。 S子さん
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」ローマ5:3~5