「存在の喜び」

昨年の「病人のいやし」の説教、今年の「たとえ話」の説教を講解して教えられることは「神様との愛の関係」です。聖書の真理は、いかに神様.イエス・キリスト様.聖霊様の愛の関係を知ることができるかということです。(このことを信仰とも言います。)あくまでも信仰は「何かをすること」ではなく、自分自身の存在「存在すること」を知ることです。

 

①100匹の羊のうち1匹がいなくなり、その羊を捜すたとえ

10枚の首飾りの銀貸のうち失なわれた1枚の銀貨を捜すたとえ 

③失なわれた息子(放蕩息子)を捜し出すことは、悔い改める人を神様は捜し見い出すたとえ(ルカ15章) 

④良きサマリヤ人(ルカ10:30~35) 

⑤タラントのたとえ(マタイ25:1~13)・・・など、

 

今まで16回の説教は「神様との愛の関係」として話させていただきました。

「4つの種のたとえ話」(ルカ8:4~21、マタイ13:1~9、マルコ4:1~9)は「神のことば(聖書)を聞く、それをしっかり守り(受け入れ)、良く耐え(忍耐)、実を結ぶ(みことばを実践する)ことです。

その結果「30倍60倍100倍の実を結んだ」(マタイ4:8)このことは「神様との愛の関係」の濃さ(信仰の濃さ)です。

ですから、信仰はその人によって違います(異なります)。

しかし、その人の存在は、30倍であろうが、60倍であろうが、100倍であろうが、変わりません。大切なことは、実を結ぶかです。
私達クリスチャンは、信仰をもって、そこに存在しているだけでいいのです。
もちろん「置かれている場所で、自分なりの実を結べば良いのです。」または、渡辺和子先生のことばを借りると「置かれた場所で花を咲かせましょう」です。
ある教会を訪ねた時のことです。
教会に通じる坂道に沿ってきれいな黄色の百日草が一列に咲いていました。
大きな花をつけて咲いている花、小さな花をつけて咲いている花、丁度いい大きさの花をつけて咲いている花が、あたかもうまく並べて植えてあるようでした。
先生の奥さんに聞いてみると「種を坂道に沿って蒔いて、毎日水をかけただけですよ。」と言われました。
私が見るかぎり、その配列といい、花の大小といい、本当にきれいなアート作品のようでした。
神様は私達をこの世のアート作品のように造りだしています。造りだされた私達は神様に用いられやすいようになりましょう。それは、30倍、60倍100倍の実を結ぶという結果ではなく、「置かれた持場、立場で、実を結ぶ(花を咲かせる)ことです。あなたの存在を、主なる神様が喜ばれるからです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ2:8~9