「いつも神様に祈る」

ルカ18:1~8は「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため」のたとえ話です。
この物語から教えられることは 
1善悪をはっきりさせてくださるように祈ること。18:3「相手を裁いて、私を守ってください。」
この意味は、旧約の「さばき」についてです。「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」ことにおけることです。
ですから、この利己的な、裁判官は、自己の利益はともかくも、裁判することが本来の仕事です。
ですから「不正(不当)」とは道理に外れたことをする裁判官でも「ひっきりなしでやって来て」訴えることは答えざるを得ないのです。それにひきかえ誠実で愛に満ちた神様に祈ることは、必ず答えられることです。
この地上でのことだけではなく、死後に必ず祈りが答えられることを信じ続けることです。
 
2 18:7「神は一一いつまでも、そのことを放っておかれるでしょうか。」神様は真実で正しい方、愛なる方(1ヨハネ1:9、4:8~10)ですから、必ず祈りに答えてくださいます。
ルカ11:5~8の「旅の友人のためにパンを求めれば」必ず与えられるように、神様は祈り求め続ける者には与え、捜し続ける者は見つけ出し、たたき続ける者には開いてくださることを信じ祈り続けることです。 
3 18:1~7この「やもめの裁判のたとえ」に対して18:7~8の部分の「さばき」は終末の「さばき」のことへの適用です。ここで大切な祈りに関することばは、「信仰です。」原文は定冠詞がついて「その信仰」つまり「神はすみやかに彼ら(選民イスラエル人=クリスチャン)のために正しいさばきをしてくださいます。」ことを信じる信仰のことです。ですからイエス様は、ルカ17:11~19の「10人のらい病人、ツアラート(重い皮フ病)の人々をいやされた物語で選民であるユダヤ人のツァラ一トの人々がイエス様をツアラート(当時は罪の結果というように思われていた)からの「きよめ主」「いやし主」と信じることなく、ただ病気(ツァラ一ト)を直す方としか信じていませんでした。
だからイエス様の所に感謝に帰って来ませんでした。
しかし、選民ではない異邦人のサマリヤ人のツァラ一ト患者は、イエス様を罪のさばきからの救い主と信じる信仰「その信仰」のゆえにイエス様の所に「帰って来て、イエスの足もとにひれ伏して(礼拝して)感謝しました。」ルカ17:15「その信仰」に感動したイエス様は「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人(サマリヤ人)のほかにはだれもいないのか。」そしてその人に言われた。「立ち上がって(アナスタソー)は死者の復活する時使うことば)行きなさい。(復活信仰に生きることです)あなたの(サマリヤ人)信仰があなたを直したのです。
(ソーゾーは罪からの救いを意味します。)ルカ18:7~8でイエス様が言われる「その信仰」は選民ユダヤ人には見られず、罪人と言われた異邦人(サマリヤ人)に見られたのです。
また、次の例話の「パリサイ人と取税人の祈り」でも罪人といわれた取税人にその信仰が見られたのです。
ですからこの箇所から祈りについて教えられたことは「イエス様が来られる再臨のために、目をさまして、必ずイエス様は再臨されて、イエス様の十字架による罪の赦し贖い、そして3日目によるイエス様の復活によって私達も復活の命(永遠の命)をいただいて完全に救われることを信じ祈り続ける信仰を持ち続けようではありませんか。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン 」 1ペテロ4:7~11