「主にある輝き」

『人生は出会いできまる。』という  マルチン・ブーバ師のことばにあるように、人は神様に出会うことによって人生が変わります。弟子のペテロも神であるイエス様にお会いして変えられていきました。

漁師であったペテロは、まずガリラヤ湖で魚を網で捕っていた時、イエス様に出会い、仕事を捨ててイエス様に従いました。

しばらくして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエス様と一緒に山に登って祈ります。すると祈っていたイエス様の御姿が変わり、光り輝きました。この栄光の姿は、イエス様がこの地上に来た目的を現していました。罪人である人間を救うため(罪人を贖うため)に御自身が旧約聖書で預言されている贖いの子羊であることでした。それは、十字架に御自身をささげて罪の赦しを与え、3日目の復活の姿(り輝く姿)になって、信じる私達に救いを与える事を現していました。このイエス様の変貌の時には、ペテロをはじめ、弟子達は、理解できませんでした。この『救い』を理解するには、聖霊の働きが必要だったのです。

その後、聖霊を受けたペテロをはじめ弟子達は、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられました。

 

星野富弘さんは、体育の教師時代、鉄棒から落ちて頸随損傷の大けがを負いました。

それにより、首から下の体は麻痺で動かせなくなりました。  しかし、人間の持つ肉体の働きは失われても、神様が与えてくださる内なる人である霊が、生き返り、輝いた人生を今も歩み続けています。

しかも絵筆を口にくわえて描く作品と詩は、全世界の多くの人々のなぐさめ、励ましとなっています。

 

次は星野富弘さんの言葉です。

「私は頸随損傷により、体の首から下が麻痺で治る見込みがなくなった時、同病院の患者が快復していくことに嫉妬する醜い自分に苦しみました。しかし、病院のスタッフだったクリスチャンが三浦綾子氏の『塩狩峠』『道ありき』『光あるうちに』を貸してくださいました。その言葉ひとつひとつに感銘を受けました。他人には見られないように隠してきた真っ黒な悲しみに、ひとしずくの光が差し込んでくる感じがしました。

 

『生きるというのは権利ではなく、

  義務です。生きているのではなく、

  生かされているのです。』

そして随所に聖書の言葉や、それに従って生きているクリスチャンと呼ばれる人々の姿が、感動的につづられていて、心揺さぶられました。私が高校1年生の時、豚の肥やしをかごでしょい上げていた時、いきなり目の前に、現れた小さな十字架に『労する者、重荷を負う者、我に来たれ。』という文句が書かれていた。それから不思議なことに、怪我をして入院をして、聖書を読むようになり、またこの言葉に出会ったのです。

『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。』(マタイ11:28) 

その時、『あ!あの時の言葉はこれだ!』と思ったのです。神様は長い間私のためにこの言葉を用意してくれていたんだなあと思いました。キリスト信仰を持ってからは気持ちが楽になりました。

『こういう自分でも生きていていいんだな。生きて立派なことをする。いい仕事をする。そういうことが人間にとって一番大事なことではなくて、とにかくこの世に生を受けて生き続ける。それを神様に感謝して生きる。そのことが非常に大事なことなんだ。生きていること自体が不思議で有りがたいことなんだ。』と思えるようになりました。』

(花に書かせてもらおう:星野富弘氏)

 

「私達はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18