「命のパンを与えるイエス様の祈り」

ルカ福音書ではイエス様の公生涯での7つの祈りがあります。

その意図することは、

①ルカ3:21、イエス様が洗礼を受けられる時の祈りは神ご自身が人間となられて、人間と同じように洗礼を受け、命を与える聖霊様と共に3年半の宣教活動の使命を初める祈りです
②ルカ4:1-12、イエス様が人間が受ける悪魔の誘惑に勝利するために「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる1つ1つの言葉によって生きる」事を身をもって勝利された祈りです。
③ルカ5:16、イエス様の宣教活動は、いつも荒野に退き、疲れを癒し、霊的な力を得実践生活に勝利する為の祈りです。
④ルカ6:12、イエス様は12弟子を選ばれるため夜通し祈りました。それは、弟子達がイエス様の十字架と復活を経験し、聖霊を受けて全世界に宣教し遣わされるための祈りです。
⑤ルカ9:18、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人以上の給食をされた奇跡は、自らが命を与えるパンとしてこの世に来られた事。十字架で命を捨てて身代わりとして死んでその命を与え、勝利する為の祈りです。
⑥ルカ9:28、イエス様は山に登り祈られました。そして御体が変わり輝き、モーセ(律法)とエリヤ(預言者)とにお会いしてイエス様のご最後(罪人の身代わりとなり十字架で死んで命を与える事。
そして3日目に復活し永遠の命に生きる事。)ができる使命について確認する祈りです。
⑦ルカ22:39~41、イエス様は最後にエルサレム神殿の外にあるオリーブの園で十字架につく為に苦しみの祈りをなさいます。人間的に考えれば苦しんで十字架で死にたくありません。しかし、イエス様は人間の罪の身代わりとなる為に、この世に来られたのです。その使命をご自分で受け入れる祈りです。 
この7つの祈りを調べてわかった事は、イエス様は、ことあるごとに祈ったとルカが書いた目的は、イエス様は『神の御姿であられる方なのに神のあり方を捨てる事ができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし(十字架の)死にまでも従われたのです。それゆえ神はキリストを高く上げて、全ての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの全てが、膝をかがめ、全ての口が『イエス・キリストは主である』と告白して父なる神が褒め讃えられる為です。」ピリピ2:6~11
⑤ルカ9:10~18の5千人以上の給食はヨハネ福音書では、モーセが荒野で食べた神様のパン・マナは一時的に人がこの世で生きる為の糧でした。神の口から出る命の言葉であるイエス様が与える命のパン(十字架と復活)は、神様が人間の罪を赦して新しい命、罪赦されて永遠の命に生きる事を教えられる為でした。
「私は命のパンです。私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんなときにも、決して渇く事がありません。」(ヨハネ6:35)「私は、天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51) 
 イエス様は荒野(エレ一モス)意味:
①さびしい所、何もない荒地という所から生ける命のパンを与えられる方です。その為に、あえて何もない荒野に導かれました。私達は信仰生活において「無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)であるイエス・キリストは「5つのパンと2匹の魚」で5千人以上(2万人ぐらい)を養うお方であると信じることです。
②また荒野(エレーモス)の2つ目の意味として、この世から見捨てられた人、身寄りのない人、孤独な人と言う荒野にイエス様はでかけられて、癒やされたのです。
命のパンを与えられ生かされたのです。
あなたの持っている命のパン(イエス様の十字架と復活の福音)を必要としている人々は沢山います。
持っている命のパンを土の中に隠さないで与えてください。
イエス様は『5つのパンと2匹の魚』を与えれば与えるほど増やされます。イ
エス様の命のパンは、信じる全ての人々にとって救いを与える神様の力です。
「十字架の言葉は滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)