「主にある希望」

私がイエス様を自分の救い主として信じたのは、中学1年生の時です。
教会の午後の集会に来るようにと、教会学校の先生に誘われました。
そして先生は、集会が始まる前に「M先生が手を挙げなさいと言ったら挙げるのよ」と言っておられました。何だろうと思いましたが、その時語られたメッセージはそのまま私の心に届き、イエス様が私の罪のために身代わりに十字架にかかってくださったことがよくわかりました。当時の私は人間関係で悩んでいました。学校では真面目に勉強にも取り組み、正義感も強く、クラスの中では学級委員をしていました。クラスを良い方向に導くこと、いわゆるクラスを統制する役割を一生懸命他の委員と力を合わせて頑張っていました。
しかし、当然自分の思うようにはクラスを導くことはできません。
思春期の中にある一人一人ですからコミュニケーションもすべての人とうまく取ることが出来ません。どうしても批判されたり、中傷されたりする事があると争いになり、相手を赦すことができません。私は正しい、悪いのは相手だとやり込めようとしてしまう高慢な思いが出てくるのです。M先生の話を聞いた時、自分の中にあるドロドロとした汚い心、高慢な態度が思い出されました。私は罪人だということがはっきりわかりました。
こんな罪深い私の身代わりとなってイエス様が十字架にかかってくださったことを知った時、体が震えてうずくまってしまいそうでした。
そしてM先生は祈りの中で「イエス様を自分の救い主と信じる決心をした人は手を挙げてください」と言われ教会学校の先生がいっていたのはこのことなのだと思いながら私は決心して手を挙げました。集会のあとM先生は一緒に罪の悔い改めのお祈りを導いてくださり私の罪はイエス様の十字架によって赦され3日目のイエス様の復活によって完全に罪から解放されて永遠のいのちをいただくことができたと教えてくれました。
私は「信じます」と告白しました。教会生活をしていく中で自然に洗礼に導かれ神様と共に歩むことができることを感謝しています。信仰生活を送っていく中でいつも良いことばかりで悩みがなかったわけではありません。家庭でつらいことが2年ほどありました。
次々に起こる問題におしつぶされそうになり泣いてばかりいましたがそんなつらい状況の中で祈っていると本当に、より頼み信頼できるのは神様だけだということを教えてくださいました。祈り続けていくことの大切さを教えられ、神様が最善の道を開いてくださることを何度も経験することができました。今考えるとその経験は高慢な私が本当に神様の前にへりくだり、打ち砕かれるために必要だったのだと思わされました。T・Aさん
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠の命です。」ローマ6:23