「主の栄光を見る祈り」

イエス様の祈りの内容パート2
パート1 マタイ11:25~30は
①『イエス様が父なる神様に対して救いの確信をしている祈り』
②『イエス様に救われた幼子(クリスチャン)に対する招きの言葉の祈りでした。』
今日のヨハネ11:41-43はヨハネ福音書の7つのしるしの最後『ラザロの復活』の奇跡の時の祈りです。『ラザロの復活の奇跡』を行なう前にイエス様が祈られた内容は、やはりマタイ11:25~30の内容とほぼ同じです。それはイエス・キリスト様がこの地上に来られた目的(使命)だからです。イエス様の十字架と復活こそが私達が信じ救われる福音だからです
Ⅰ 、ヨハネ11:41~42a『イエス様が父なる神様に対してラザロが復活すること(救われること)の確信の祈り』
Ⅱ、ヨハネ11:42b~45『イエス様は復活したラザロ(救われたこと)を見ることによって信じる人々(クリスチャン)がおきることを確信しての祈り』 Ⅰ、ヨハネ11:41~42a
『イエス様が父なる神様に対してラザロが復活すること(救われること)の確信の祈り』
イエス様の祈る姿勢は天を見上げることでした。
そして、ここでもイエス様は祈りの初めに『父よ』と全知全能の父なる神様をお呼びになります。続いて『私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします』
ギリシャ語の順番は、まず「感謝します」ユウカリステオは(ユウ=良い ➕カリゾマイ=恵む)の合成語です。意味は、良い恵みを受ける、感謝する、感激する、祝福する、恵み豊かである。時制は、直接法現在能動態(私は今現在感謝し続けています。)となります。「感謝」は新約では47回使われています。マタイ26:27で聖餐式の意味の説明の時、
2つの言葉①エウロゲオ(祝福)そして②ユウカリステオ(感謝)は同じように使われていました。特にヨハネは、ここともう1ヶ所6:11、23『イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやった。』5つのパンと2匹の魚の奇跡の時に使われ、マタイ26:27聖餐式の時「取って食べなさい。これは私のからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後こう言って彼らにお与えになった。「みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
※ユウカリステオ(感謝)は祈りの最高峰です。
主の祈りには5つの項目があります。
①願い②悔い改め③とりなし④賛美⑤感謝です。私達はともすると、願いの祈りばかりしてしまいます。
なかなか感謝・賛美・とりなし・悔い改めと全部祈ることはできません。しかしイエス様は『まず第一に感謝(神様の恵み)をかぞえたのです』
しかも続くギリシャ語の言葉は「いつも私のことを聞いている(現在も聞き続けている)ことを私は確かに(アオリスト時制)知っておりました。」 イエス様の感謝の根拠は「父なる神に対する絶対的な信頼(信仰)に基づくものです。
イエス様の祈りに教えられることは、この死人ラザロの復活は、イエス様ご自身がこれから十字架につけられ私達の罪の身代わりの小羊となって過越の祭に殺され、罪を赦してくださり、その罪の赦しを完成するために3日目に復活なさること悟らせるためでした。この使命をヨハネ11:42「私はまわりにいる群衆のために、この人々があなたがわたしを(過越の小羊、罪を取りのぞく小羊[ヨハネ1:29]として)お遣わしになったことを、信じるようになるためにこうもうしたのです。」と祈りを終えています。私は礼拝説教で、今年9月まで18回「イエス様の祈り」について学んできました。
イエス様の祈りは
①父なる神様への絶対的信頼に基づいて祈りました。(ヨハネ17章)
②父なる神様のご計画を忠実に行なうために祈りました。
(ヘブル4:15、5:7~9)
③父なる神様の人々を救うご計画の祈り(十字架と復活)は人間となったイエス様にとって苦しみ、悲しみを受ける祈りとして私達に模範を残すための祈りでした。
(1ペテロ2:20~24)
④父なる神様の救いのご計画(十字架と復活)を成し遂げて天の御国に帰られるために40日間復活の体を見せて祈られました。(使徒1:3)
⑤父なる神様の救いのご計画を成し遂げ、天の御国で今もなお私達のために執り成しの祈りをしていてくださるのです。(ヘブル7:25)
イエス様は、私たちのために、昨日も今日もいつまでも変わることなく、執り成しのお祈りしてくださっておられます。
ハレルヤ!イエス様に感謝します。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、よろしい返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、
私たちが罪は離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、癒されたのです。あなた方は、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」Ⅰペテロ2:21〜25