「キリストを愛する」

「私が音楽を学びたいと、高校卒業後アメリカ、カリフォルニアの州立大学に入学。
振り返ると、私がイエス様との出会いの始まりだった。入学後、ライブを企画した頃から『ライブをやりたい。
自分の曲で勝負したい』と、だんだんライブ活動が忙しくなり、学業に身が入らず、落第一歩手前。
将来に対する漠然とした不安に襲われ、毎朝起きると『死にたい。』うつ病に近い状態だった。
そんな時、渡米前に母から手渡された聖書があったのを思い出した。「祈る時は、家の奥の自分の部屋に入りなさい」(マタイ6:6)とあったので寮の奥まったクローゼットに入り、『神様、もしあなたがいるなら、私の人生を助けてください。』と祈ったが、何にも起こらなかった。絶望感に襲われ、夕方、ギターを持って海岸へ。ギターを弾きながら曲を作っていたら、隣のベンチで寝袋に寝ていたおじさんがムクッと起きた。話してみると、友人を待っていると。彼は牧師だった。人生に絶望していると伝えたところ、英語で『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。』(Ⅱテモテ1:7)と書いてくれた。
神は僕に恐れを与えていない!』神が与えてくれているのは、力強く愛と慎みに生きるスピリット(聖霊)なんだ。そう感じた。牧師はその場で祈ってくれ、その祈りに励まされ、卒業するのに必須だった難関レポートを奇跡的に仕上げることができた。夏休み、両親がシアトル郊外の日本人教会に来た。
私の救いを祈り続けていた母の誘いもあり、ロスから飛行機で3時間かけてシアトルに。土曜日、教会の交わりのバーベキューで、牧師から一曲歌ってくれませんかとリクエストがあり、オリジナル曲を歌った。自分の葛藤、永遠の愛への渇望、絶望の中で生きる意味を探し求めて歌ううちに涙が止まらず、泣き崩れたYさん。
その肩に牧師は手を置いて祈った。私はイエス様が直接触れてくださったような不思議な体験をした。
その後洗礼に導かれた。ロスへ戻り、大学のクワイヤー合唱のオーディションに合格し、12月からボストンオーケストラと周る全米ツアーの一員として参加。「クリスチャンになって初めてのクリスマスシーズン、僕は与えられた音楽を使って、全米を駆け巡り、イエス・キリストの誕生を賛美していたことに気づきました」大学を卒業し、帰国してからYさんは本格的に音楽活動を開始。ライブハウス、教会、カフェ、ストリート、場所を選ばずの伝道コンサートを始める。上野野外音楽堂での音楽宣教団体が主催する音楽祭の実行委員長を務めた。そして翌年からアーティストが集う六本木の祈り会から始まった全国ツアーに。‥‥アジアに行きなさいという導きが与えられ、韓国やインドネシアのバリ島に行き、イスラムの子どもたちに賛美でイエス様を伝え、救いのみわざを間近で体験。さらに世界へ出ようとしていた時に、東日本大震災が起きた。ガラテヤ2:20のみことばに励まされ、神様が自分のうちに生きておられると信じ、いわきグローバルミッションセンターに拠点を置き、福島で3年間働く。
 世界中からクリスチャンボランティアが来て、毎朝、賛美と礼拝の時間が30分あり、祈って被災地へ出かけていく。瓦礫を撤去する人、仮設で歌う人、食事を作りに行く人。まるで聖書の、みことばと祈りをもって奉仕する初代教会のようでした。そこでイエス様を信じる人が起こされたり。僕は通訳をしながら賛美をし、働き、めまぐるしい日々を送りましたが、福島がいちばん大変な時にその場所にいることができたのは神様からの恵みでした。‥‥その後、所属教会に戻り、100人ほどの賛美集会を行う機会が与えられ、中高生や青年会の若者たちの信仰にどんどん火がついた。クリスチャンホームの子どもたちが、神様に触れられて泣きながら悔い改めたのを目の当たりにし、教会の奉仕活動につぶされそうになっていた青年会のリーダーたちが、みことばに立ち返り、祈る者へと変えられていった。それと同時に、牧師が信徒宣教者にならないかとYさんに声をかけた。教会から送り出され、祈りと献金をもって伝道に出る恵みをいただいたのだ。教会から派遣される信徒宣教者として、私は広く教会の内外でイエス様をほめたたえ、賛美をもって主を伝え続けている。」
(百万人の福音3月号より)