「助け主」

【1】人は1人でいるのは良くない

※「人はひとりで」(レヴァッド)のヘブル語は「分離する」「孤立する」の意味です。
アダム(男)だけでは分離したままで完全にまだなっててはいませんでした。
エデンの園(喜び、楽しみ)は「天の御国」の写し、神様との関係の世界です。
アダムに「ふさわしい助け手を造ろう」とは関係をもてる人(アダム)には、相手が必要であったからです。
「神のかたち」創世1:26に「神は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう』と言われました」
三位一体の「父なる神様と子なる神イエス様と聖霊なる神様」は、その役割は異なりますが、その関係においては一体です。アダム(男)とエバ(女)も同じように創世2:24「ふたりは一体となるのである」とその奥義を言われます。イエス様はこの一体性の奥義をヨハネ15:4~5で「わたし(イエス様)はぶどうの木で、あなたがた(人)は枝です。
人がわたしにとどまり、わたしも、その人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます
。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」※つまり「人が、ひとりでいるのは良くない」のです。この奥義は「ぶどうの木(イエス様)とその枝(教会、信じる者の集い)」は切っても、切り放すことができない関係なのです。
【2】彼にふさわしい助け手
「助け手」(ケネグド一)のヘブル語は「彼に向かい合う」です。
「彼(アダム男)に向かい合う、助ける者」とは丁度、凹凸(おうとつ)のような関係です。
片方だけでは1つになれません。この関係が新約聖書では「イエス様と聖霊様」との関係として書かれています。
ヨハネ14:16、26「わたしは父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主が、いつまでもあなたがたと、共におられるためです。」※イエス様を信じる者の姿が夫婦と同じ一体です。
(1)   ぶどうの木(イエス様)とその枝(教会、信じる者の集い)が切り放すことができない関係であります。
(2) イエス様を信じる者は聖霊様の助けによってイエス様といつも「向き合う」関係にしていただけます。ヨハネ15章の「ぶどうの実」を結ぶことは、夫婦が子どもを生むように「イエス様を信じる者」が生み出されることです。
それと同時に「イエス様を信じる者が、その関係において、聖霊の実「愛、喜び、平安」という実食べることが出来ます。
エデン(喜び、楽しみ)の園の実を食べることができるのと同じです。
【3】「ふたりは一体となる」
夫(アダム)と妻(エバ)との関係がキリストと教会の関係としてのひな型です。(エペソ5:22~33)
エペソ5:30~31「私たち(教会)はキリストの体の部分だからです。
それゆえ人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」創世2:24
「結びばれ」(ダ一ヴァク)のヘブル語の意味は「縁を結ぶ、すがる、まといつく、くっついて離れない、そばにいる」⇒極めて親密な関係の意味です。
(1)「一体となる」(バーサール)のヘブル語の意味は「一つの肉となる」男と女が相互に依存し合う関係の意味です。
新約聖書での、イエス様と教会の関係は、夫(イエス様)と妻(教会)との関係になっています。
これは、「結び合い⇒くっついて離れない」信仰生活にとって奥義であり重要な真理です。
(2) 「一体となる」(バーサール)のヘブル語のもう一つの意味は「弱くもろい」ものです。
ですから「人間」は神様に助けていただかなければ「弱くもろい」ものです。
ですから「人はひとりでいるのは良くない。」のであって、誰かの助けがなければ生きられません。
ですか神様に造られた人間とっては、神様を信じることが人間が完成されることなのです。
それゆえ、イエス様を信じる私逹は、エデンの園(喜び、楽しみ)が与えられる所に住み生きることができるのです。
【まとめ】
創世記2︰18~25の男と女が一体となる奥義は、イエス様とクリスチャン(信じる群、教会)の関係のひな型です。(1)  「人はひとりでいるのは良くない」はぶどうの木である。(イエス様)とぶどうの枝である(クリスチャン・教会)が切り放すことができない関係であることによって生きることができます。
(2) 「彼にふさわしい助け手」は、凹凸(おうとつ)のような関係で
「向かい合わせ」になって一つのものとなるようにイエス様と教会(クリスチャン逹)が一つとなって生きることができます。
(3) 「ふたりは一体となる」はもともと「人は土地のちりで造られました。」しかしその「弱いものである」体に「いのちの息(聖霊様)が吹き込まれた。」(創世2:7)ことによって生きるものとなりました。
この神様と人間との「一体の関係」こそが「夫と妻との一体の関係」の奥義です。
エデン(喜び、楽しみ)の園の回復がイエス様と教会との関係によって表わされるひな型なのです。天国で完全に罪赦された花嫁としての教会を花婿であるイエス様が迎えてくださる時、この結婚の奥義は完成します。(黙示録21:1~10)
「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世(罪人である人間)に遣わし、その方(イエス・キリスト)によって私達(教会)に命を得させてくださいました。ここに神の愛が私達(教会)に示されたのです。」(1ヨハネ3:9)