「キリストの捧げ物」

創世記4:1~16
【1】カイン=獲得する、儲ける、所有するの意味、もう1つの意味は鍛冶屋=現代の物を作り出す技術、知識を持つこと。カインは名前の通り、罪の奴隷(神がいない世界のこと)働きはすべて自分の「儲け、所有、獲得した)ものでした。彼が犯してしまった罪は人間の生き方がカインという名のとおり自己中心、自分の貪欲にとらわれた人生であったことが名前からわかります。つまり自分が神となることです。
1ヨハネ3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者でした。(自分さえよければ良い)そして兄弟を殺しました。(他人を殺しても自分が生きれば良い)なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟アベルの行ないは正しかったからです。カインの罪はアベルに対して嫉妬、争い、相手をばか者として見ていたことです。(マタイ5:22~25)カインの罪が残ったのは、悔い改めがないことでした。創世記4:16~22 カインの文化が現代人の罪です。
【2】アベル=はかない、むなしいの意味神はアベルを見ていました。アベルは兄カインに殺害されて死にました。彼の存在自身は(はかなく、むなしい)ものでした。しかし短い彼の人生でしたが、その信仰においては優れていました。※ヘブル11:4  「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげました。※ ルカ11:50 アベルの血(死)が代々の預言者たちの殉教と同列におかれ、最初の殉教者と見られています。※そしてヘブル12:24で「アベルの血(死によって注ぎかけられた血)はイエス・キリストが神様と新しい契約の仲介者として十字架で流された(注ぎかけの血)です。」と説明しています。※ここにイエスキリストの罪の身代わりとしてのいけにえがあります。カインは自己中心で(儲けること、所有すること)自分がよければ他人はどうでもいいという考えが殺人となります。しかしアベルの死(血)は全人類の死の身代わりとなったイエス・キリストの十字架の血(死)を意味していたのです。ヘブル11:4「アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによってアベルは義人であることの証明を得ました。」神様は私達の信仰を見られます。
(1)アベルの神へのささげものの態度(心)を神は見られる方だからです。「いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに」(Ⅱコリント9:6)したのです。しかも「自分自身でもって来た」態度です。ここにはカインの作物(農作物)とアベルの羊の初子(動物)という種類のちがいではなく、信仰の態度、心の問題です。また量というよりも質の違いもあります。アベルは「羊の初子(初物)最良(傷のないもの)これは、質の問題です。「2レプタを捧げた貧しいやもめ」の献金は現代では500円~600円位です。しかしこの献金が生活費全部とあります。この少ない献金をイエス様は質的にすぐれていたので喜ばれたのです。(マルコ12:41~44)
(2)アベルの捧げものはイエス・キリストのひな型でした。「義人」=ギリシャ語デカイオス(神の自ら行なった義のわざ十字架と復活による罪の赦し)この意味は「そのいけにえによって義人であることの証明を得ました。」(ヘブル11:4)とあります。「義人」であることはアベルの「羊の初子、なかでも最良のもの」を捧げた。この行為こそがイエス・キリストが小羊となって十字架で罪の身代わりとなり、捧げたいけにえだったのです。ですからこのいけにえは、イエス・キリストのひな型でした。それゆえアベルはイエス・キリスト(小羊)によって「義人(義と認められた)」のです。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様は宣言されました。(ヨハネ1:29)「キリストは自分から十字架の上で私達の罪をその身に負われました。それは私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」(1ペテロ2:24)