「初めの一歩」――T・S
小さい頃、私はよく母親や教師に怒鳴られ、叩かれました。常にその監視と監督の目に怯えながらの小学校生活だったのを覚えています。母も教師も常に命令・指示口調で、私の気持ちに耳を傾けることはありませんでした。
子どもが問題行動を起こさず、親や周囲の期待をいち早く察知し、その期待を上回る成果をあげ、社会の勝ち組になるように育てることに必死で、「たとえ不利益を被ることがあっても、正しいことは正しいと言える人間になりなさい」などと教えることはなく、むしろ「馬鹿正直に生きるんじゃない」と教えました。それゆえ、私には倫理観が全く育たなかったのです。人としてどう生きるのが正しいのか。国家や社会が間違ってしまったら、その中でどう行動すればいいのかなどを考えることがなかったばかりか、むしろ社会に竿刺す人を見下す人間になりました。
そのような、私に転機が訪れたのは高校三年の時でした。現代国語担当のS先生との出会いです。
S先生は教科書の教材一つ一つについて、授業前と授業後に生徒に感想文を書かせ、それにコメントすることで成績をつけたのですが、私はその一回目の先生とのやりとりを今でもはっきりと覚えています。
教科書の課題教材には、こんな意味のことが書かれていました。「青春とは、ビーチパラソルやパーティなどの華やかさで象徴されるようなものではない。何事にも挑戦しようとする心を持って生きているなら、それが青春である。」これに対して、授業前に私は次のように書いたのです。
「この筆者は『青春』という言葉を自分なりに定義して、新解釈を提示しているが、言葉には社会一般に認められた意味がすでに存在するのであり、それは国語辞典に書いてある。
それに対して自分なりの意味を提示するのは、自分勝手であり自己中心でしかない。」
この感想文に対してS先生は赤ペンで大きく×印を付け、デカデカと「あんたは考えることを知らん!」と書いてきたのです。それからクラス全体にこう言いました。「あんたたちは文化系を選択してこのクラスにいるけれども、文化系というのは何のためにある分野か知っているか。文化系にいる者は、人文学の領域で『真理は何か』を探求することを使命とするのだ。世の常識を鵜呑みにせず、何が正しいことなのか。何が尊いことなのか。
社会全体が間違ってはいないか。国家が道を誤っていないか。そのようなことを歴史を振り返り、哲学を学び、思想を巡らして自分で追求していく。大勢に流されず、『自分』をしっかり持ち、『自分で考える』ことのできる人間になりなさい‼︎」この言葉が私に向けてのものであったことは、すぐわかりました。 それまで「真理」とは親や教師たちから「与えられる」ものであり、「自分で追求する」ものだなどとは思ったこともなかった私にとって、これは大変な衝撃でした。
こうしてS先生を通して「自分で考える」ことの価値を考え始めた頃、全く偶然にも隣の席の同級生に誘われて宣教師と出会うことになったのです。
2メートル近い高身長の彼が、身を折るようにして私に自己紹介をした時、その言葉が私にはまた衝撃でした。
「私たちクリスチャンは、真理とは何かを探求し、それに出会った人間です。
私はその真理を伝えるために日本にやって来たのです。」「真理とは何か」を探究することが文化系の使命だと聞かされて衝撃を受けていた私にとって「真理を伝えるために来た」と語ったその宣教師の言葉は、まさに「ここに道がある。これに従え」という天からの声として響きました。そしてそれが、聖書を読み、礼拝に集い、やがては献身者となっていく初めの一歩となったのでした。
『だれでも、キリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。』(Ⅱコリント5:17)