「神様の声を聞いて」

「私はクリスチャンホームの子供です。物心ついた頃には救い主であるイエス・キリストの存在、また日曜日に教会に行くことは私にとって『普通』のことでした。
そして小学5年生の時、教会学校の友達6人と一緒に洗礼を受けました。
私が洗礼を受けたのはイエス・キリストを自分の救い主として信じたからです。
 しかしそれ以上に大きな理由がありました。それは友達が洗礼を受けることを決心したため『自分も遅れるわけにはいかない』という理由です。そのためか中学生、高校生の間は自分の意志で『教会に来ている』というよりは、教会には『来させられている』という思いが強かったと記憶しています。
 それでも教会に繋がり続けられたのは父と母が神様と教会に献身的に仕えている姿を間近で見てきたからだと思います。
 このようになんとなくクリスチャン生活を送っていた私でしたが、大学生時代に同年代のクリスチャン達と関わる機会が増えました。そして、そのクリスチャンの友達たちが神様と教会を大切にしている姿を目の当たりにして、自分もクリスチャンとして真面目になろうと考えるようになりました。そして、自分の意志で教会に繋がることを選び続けられるようになっていた24歳のクリスマスの時期に、イエス様は私に個人的に出会って下さいました。不思議な体験ですが、イエス様の声が私の心の中で聞こえました。
 それは『感謝しているのか?』という一言でした。私はこの言葉を聞いて程なくして聖書の一節が思い浮かびました。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』ヘブル12:2 という御言葉です。このとき御言葉の『イエスから目を離さないでいなさい』とは『いつもイエス様の十字架の恵みを忘れずに感謝し続けなさい』を意味しております。それまで、私が イエス様の十字架による罪からの救いを心から感謝できていない者であったということがわかりました。
 そして、罪人である自分のためにイエス様は死んで下さったこと、今から2000年前に生まれて下さったことが初めて心でわかりました。
 ずっと頭の中で知識として知っていた聖書の話が全て意味を成して私に降り注ぎ、ようやく腑に落ちたというような体験でした。これが私のイエス様との個人的な出会いです。 このことを体験した私はそれ以来、イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架に架かって死んで下さった救い主であり、このお方の十字架の死と葬りと復活を信仰によって受けとりました。こんな私も罪赦されて永遠のいのちが与えられたという『恵み』に感謝が絶えません。」   Y・Hさん
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」    エペソ2:4,5