「神様の恵み」

「私は4人兄弟の長男として生まれました。
幼い頃の私は内向的性格であったため、他の子供達と遊ぶのがうまくありませんでした。
家の中では妹や弟を相手に楽しげに遊んでいましたが、外へ出るとかなりの人見知りをしていました。
そのような中で私が選んだ心の支えは『道徳』でした。
他の人の見ていない所でも何か良いことをしていればその報いがあるはずと信じました。
対人関係の中でうまく自己表現できなかった、私は『道徳を遵守する事』で自分らしさを表そうとしたのです。目で見えることにおいて劣等感を感じることは多々ありました。ある子は私の持っていないオモチャを持っていたり、ある子は運動が優れていたりしました。しかし、そのような子を見る時、私は自分に言い聞かせていました。『自分は彼らと違って日頃、良い行いをしている。掃除は真面目にやるし、授業は真面目に受けている。それに皆がやっている悪いことも自分はやっていない。』と。事実私は今でもタバコは吸いません。
ゴミを道に投げ捨てたりはしませんでした。
しかし昨年、私は自らの支えであった『道徳』を自らの行いによって犯す事となりました。確かに小さな部分においてはすでに『道徳』を守れていなかったわけですがその時、決定的に『道徳』に背くこととなりました。その時、私は自らの基盤を失い、そればかりでなくそれまでの支えであった『道徳』に心が責められるようになりました。自らの力でその罪を償えないことが私に絶望をもたらせました。
生きる限り、また死んで後も、この罪に縛られてゆく思いがしました。
最も私が生きる希望を失っていた時、神様は、1人の青年を用いて、私に
キリストの福音を伝えてくださいました。彼はシンガポ一ルから福音を伝えるために日本に渡って来ていたルーク・マンチョンさんでした。彼は日本語が話せませんでしたので、私はほとんど彼の言っていたことがわからなかったのが実状でした。しかし、彼はそれでも福音のタネを蒔いてくれました。学校の芝生の上で彼が伝えてくれたことは、神が私を愛して下さっていること。
しかし、私の心が神様を認めようとしなかった為その恵みが受けられなかったこと。
そして、罪人である私を神様の前に立たせるためその罪の身代わりが必要であったこと。
それがキリストの十字架であったことでした。その時はなぜキリストの十字架が罪を赦すのか全くわかりませんでしたが、次の聖書の言葉は心に残りました。
あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです。』(エペソ2:8.9)
それまで『道徳の行ない』により自らを義としていた私。
そして恵みは、天よりのものでなく自分自身より出るものと信じていた私。
そしてそれ故に罪に苦しんでいた私には全く価値観が逆の世界でした。
 そして、更に聖書の言葉は私を救いに導いてくれました。
しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。』ローマ5:20
 私を苦しめていた罪は恵みへと変えられるという約束です。
神はこのような罪深い人間を赦され、このようなもののために命を捨てられ、このようなものを義とされました。このようなことはかつて聞いたことはありません。
人の作り出した価値観は私を責めました。唯一神、イエス・キリストだけが私に手を差し伸べて『道徳』と言う『律法』から解放し救って下さいました。」  k・Jさん 
「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によってり義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者はひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16